ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

ホンダの創業者たち

ぶっさんです。


あなたは自動車メーカーと
いえば、どこのメーカーを想像しますか?

フェラーリでしょうか?
トヨタですか?
ベンツでしょうか?


私は「HONDA」を想像します。

学生時代の私は、アイルトン・セナが乗る

紅白のマシンの勝敗に一喜一憂していました。

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当時、度肝を抜く国産スーパーカー
NSXというマシーンつくったのもホンダでした。

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(写真は北米仕様のアキュラVer エンブレムがHマークでないですね。)

国内で、スーパーカーをつくっているすごい会社。
それが学生時代の私の「ホンダ」に対するイメージです。

スーパーカーといえば、
ランボルギーニ、フェラーリと、
海外のメーカーが多かったので、
当時の私には衝撃でした。

※リトラクタブルライト

(俗称スーパーカーライト)で、車高が低い。

 が当時のスーパーカーの私の定義でした。


今回はその「HONDA」の創業者
「 本田宗一郎氏 」そのパートナーの
「 藤澤武夫氏 」をご紹介したいと思います。

(今回は前編です。)


一代でバイク、自動車のメーカー、
の頂点を作り上げた男達の物語です。

(かなり盛ってます。)

 

私も一から学んで私なりの視点で
話したいと思います。
間違いもあるかも知れません。
その際は暖かくご指摘頂けると幸いです。

 

私のような青二才に知ったつもりで
お二人の人生の一部を話されて
不本意かもしれませんが、ご紹介させて頂きます。


私のような広告業と違って
モノづくりは1人ではできません。
しかも売れなければ事業は存続しません。

 

調べていくと「Honda」の発足当初は

従業員にも分割で給料を払うような

苦しい状況もあったそうです。

それでも、ついてくる従業員がいて、

現在の「Honda」があるのです。

 

そもそもお二人は、

どういった方だったのでしょうか?

 

 

本田宗一郎氏は
1906年(明治39年)
静岡県浜松市に鍛冶屋の息子として生まれました。

幼い頃からやんちゃだった氏は、 

 

村に自動車がくるとあとをついてまわり、
道に落ちた油の匂いを嗅いでいたといいます。 

 

いつの日か自分も自動車をつくってみたい・・。
と思ったそうです。

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高等小学校卒業後、

15歳で丁稚奉公で、
自動車修理工場の「アート商会」へ入社。 

 

※丁稚奉公とは修行の為に
他の商店などで、働くことをいいます。
食事、寝床、わずかの小遣いだけで、
給料はでません。 

 

代わりに現場での実学を学ぶことができます。
「技術」「顧客との接し方」「心構え」など、
お金では買えない多くのことを、

宗一郎氏は学ばれたと思います。


ちなみに入社後、半年間は
社長の子供の子守だったようです。笑


宗一郎氏は

・溶接 (金属を溶かして接着する技術)
・鋳造 (金属を溶かして型に流して成形する技術)

なども名人級でその上、博学だったそうです。
その基礎をアート商会で学ばれたようです。

 

後年、彼が引退後に社長になった河島氏は、
紙の上の学問しか知らない自分達では
とても歯が立たなかった・・と述べています。


アート商会での修行時代、
主人の榊原氏と一緒にプロペラ飛行機の
エンジンを載せた自動車のレーシングマシンをつくり、
「日本自動車競争大会」で見事に優勝もされました。
本田宗一郎氏、17歳の時だったそうです。


この時の経験、感動、思いが後の
日本メーカー初の海外レース参戦へと

つながっていくと思われます。


20歳の時には徴兵検査を受けてます。
運良く、色盲と誤診され、
軍隊生活を送らずに済んだそうです。 

 

丁稚奉公から6年後、
当時勤めていた「アート商会」の
暖簾分けを許されました。

当時、その許可がでたのは、
宗一郎氏だけだったそうです。

 

1928年、入社から6年後、
浜松に「アート商会」の浜松店を出店しました。
20歳前後で出店です。す、すごい・・。

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自動車修理事業を順調に拡大し、
その後、「東海精機重工業株式会社」を設立します。
ここから修理業から、マシンメーカーになるための
事業活動を開始していきます。

 

外部から社長を雇い、自分はアート商会に
所属するという二足のわらじで、

仕事を続けたようです。


設立後、エンジンの部品を作るために
浜松高等工業学校に復学し、
金属工学も学んでいます。


その後、三河地震により、
東海精機重工業株式会社の工場が
倒壊し、豊田自動織機(トヨタ)の本家の
会社に全株を売却し退社した。
ここで、挫折をご経験されたのでしょうか? 

 

この年に、終戦。

 

一年の休暇を経て、

1946年、本田技術研究所を設立します。
この時、本田宗一郎氏、39歳です。

 

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(当時の社屋の写真です。)

当時から、従業員にはオヤジと呼ばわれて
慕われていたそうです。

(1953年時の様子)

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自転車用の補助エンジンを開発し、販売します。
今の電気自転車のガソリンエンジン版ですね。

最初はエンジンも軍からの払い下げのモノを

使って組み立てたものでした。

 

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 (初期型 エンジンは軍の払い下げのもの)

 

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(その後、徐々に改良を重ねていく。)


既に世界市場では1984年にドイツの

ヒルデブラントブルフミューラー社が量産に成功。

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(この車体は、当時の日本にも来てます。)

 

1903年にハーレーダビットソンも
同じように自転車にエンジンをつけた
「モペッド」と呼ばれるものを開発してました。

 

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(1907年当時のもの)

 

その、43年後にこのような自転車を
宗一郎氏はつくっているんですね。
戦後という物不足の状況もありますが、
世界に比べると後発すぎますね・・。 

 

と私だったら、あれこれ調べて考えて、

結果諦めそうです。

 

しかし、当時は国内でもの凄く需要があったようです。

その後、1から二輪エンジンを設計、制作し。

重要な機関部分なども製造していきます。
そして徐々に、バイクっぽいものに改良されていきます。

 


この時に、生涯のパートナー

藤澤武夫氏と出会います。
1949年でした。

本田宗一郎氏 42歳

藤沢武夫氏  38歳

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藤澤氏は、三ッ輪商会という鉄鋼材の販売店の
セールスマンから、番頭を経て、
切削工具を製作する日本機工研究所を設立します。
仲介ビジネスに限界を感じ、モノづくりの会社を設立されたのです。

 

設立後、技術に素人の藤澤氏が苦労して自社の製品化に
こぎつけたのは3年後のことだったそうです。
当時の主が軍隊から帰ってきたのを機に
三ツ輪商会を退社。独立。


しかしこの時、日本は終戦を迎えました。
戦後の日本では、製材業がビジネスになると
おもった藤澤氏は、福島で製材業をはじめて
足場を固めていきました。

 

その後、本田氏の噂を聞いていた藤澤氏は

浜松の会社を訪ねたのでした。

 

 
二人は事業をはじめて、のちのスーパーカブの前身の
バイクを開発しました。

 


1954年マン島レース出場宣言をします。
国内メーカーでは初の試みです。


ちなみにこのTTレースは二輪車の最高峰の
レースで、世界的なバイクメーカーの登竜門のレースです。
が、当時は日本のどこのメーカーも出場したことはなく、
無謀な挑戦とまで言われました。

 

1958年マン島レース出場になるわけです。
最後にマン島レース社内告知の文章の画像を
紹介して今日は終わりです。
 

これぞ、従業員にあてたコピーですね。
ありがとうございました!

 

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youtu.be

 

 

従業員を育て、率いるには教育が重要です。
どう育てるか?そのことを学ぶ為に下記の

プログラムで私は学んでます。

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#12VD0m