ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

クレーム!不況!で売れないバイク・・。ホンダの創業者達2

ブッサンです。

 

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あなたは町工場と聞いて何を思い浮かべますか?
私は飛び込み営業をしていたときに話を
聞いてくれた社長さんの会社を思い浮かべます。


ということで、今日もホンダの創業者の話を
していきます。

戦後、日本が世界のバイク産業、自動車産業に
技術も人材も負けていた時代の話です。

 

 

なぜホンダの創業者を取り上げようと思ったかというと
・私自身、ホンダに縁があった
 長く乗った車がホンダ。今の車もホンダ
 たまたまバイトをした先がホンダの施設
 知り合った方が元本田宗一郎の側近の方
などなど。とても縁がありました。


・日本人の起業家の方を取り上げたいと思った。
 海外の成功者の成功物語っていっぱいあるじゃないですか?
 スティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツとか、
 私も海外の経営者の話は好きです。
 でも、実際に自分が起業をしてみると
 海外の例より、日本の成功事例を知りたくなるんですよね。
 

・このお二人の物語は今の日本に必要な物語だと思ったからです。
 このお二人の話しを聞いていると
 夢は叶うんだなとか、そんな気持ちになってきます。
 
 そんな昭和の企業の話しなんて・・。とか
 今は平成です。と思うかもしれませんが、
 あなたに何か夢があり、もし、挫折や劣等感を
 味わっているなら、この二人の物語、
 読まれてみてください。きっと元気になると思います。

  

そんなわけでホンダという企業。
ただ、書籍などで調べた知識だけではなく、
私自身がOBの方に聞いた話などを、
あなたにお伝えできるかもしれない、ということで
今回、ホンダの創業者を取り上げました。

はい。前置きが長くなりましたが、この二人の創業者の
話しをまた始めたいと思います。 

前回の記事です。
http://copywar.hatenablog.com/entry/2017/11/02/085444


前回は、1954年マンTTレースへの出場宣言で終わりましたが、
そこに至るまで、だいぶ省略しすぎてしまったので、
本田宗一郎氏、藤澤武夫氏が組んで
どのようなことをしていったのか?という話を
今回していきたいと思います。

1949年(昭和24年)に二人が出会いましたが、
一緒に仕事を始めたのは翌年のことだそうです。


本田さんは技術、製品開発。
藤澤さんは販売、経営を担当。

互いの強みが自分の弱みということで、
パートナーシップを組んだんですね。

この時のHONDAの生産状況は
おそらく月に生産する台数。

ドリーム号(D型2サイクル)というバイクが50台
エンジン(2サイクル)が150台

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当時のドリーム号。レトロな感じです。


と自転車にエンジンを付けたものではなく、
本当のバイクを生産し始めてました。
今は2サイクルのバイクは生産されてないかもです。
昔、ビビーンって音がするスクーターに
よく乗っていたエンジンなんですよね。

既に国内のオートバイのメーカーも多数あり、
富士重工、三菱、アグスタ、ミシマ、
の影に隠れた存在だったらしいです。

私からするとこの先行メーカーの富士重工(スバル)
三菱がバイクをつくっていたことに驚くんですが・・。

 

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当時の世界のバイク。既に現代の形になってます。

 

でもこの時は世界の技術水準には遠く及ばなかった。
今では考えられないことですが・。

本田宗一郎はバイクをつくるのは得意だが、
売った代金の回収は下手くそだったと
藤澤さんは述べています。笑

 

でも夢は壮大だった。
「天馬空をゆくおもむきがあった。」と
藤澤さんは述べてます。


当時から本田宗一郎は人のモノマネが
大嫌いだったそうです。


先程生産していたD型のバイクも
国内ではクラッチを足で操作できる日本で
最初のバイクだったらしいです。

 

その画期的なバイクも当初は売れたものの、
様々な構造上の苦情、それと不景気ということで、
ホンダ最初のピンチだったそうです。

 

バイクの販売店の話ですが、
自動車の販売店でバイクを扱っていて、
今みたいに専門店や自転車屋さんがバイクを
売っていたわけじゃなかったらしいです。

しかも道路はアスファルトで舗装されてない道路が
殆どで冬は道がグチャグチャになってバイクが売れない。
今と全く販売状況が異なってました。


当時、2サイクルのバイクをつくっていたHONDAですが、
藤澤さんは本田さんに4サイクルのバイクを
つくってくれ!とお願いをします。


4サイクルのバイクの方が売れていたのだそうです。
なぜなら、2サイクルの甲高いビビーン。
より、4サイクルの静かだし、ブブーンって音で
カッコよかったらしいんですね。

しかし本田さんは今は2サイクルでやるんだ!
という考えだったそうです。


代理店は増えない、バイクは売れない・・。
という状況で藤澤さんも本当に困ったそうです。

そんなある日の朝のこと。
一緒にいこうと本田さんに誘われて、車に乗ると
いつもおしゃべりな本田さんが黙ったまま。
工場に到着すると、


製図室の机の上に一枚の紙がのっていたそうです。
この紙はなんと、4サイクルエンジンの設計図でした。

しかも当時としては、どこのメーカーも開発してない
技術の4サイクルオーバーヘッドバルブエンジンの
設計図だったのでした。

えー。そろそろ時間になりました。
本田宗一郎が「世界一」というようになったキッカケ

の話をします。
浜松出身の古橋廣之進選手という水泳選手がいました。
この年にその古橋選手が全米選手権で、

もの凄い世界新記録を打ち立てたらしいのです。

そのニュースを聞いた本田宗一郎さん、
自分も浜松出身だからやれないはずがない!と思ったそうです。
それから世界一!というスローガンを掲げるようになった

という話でした!

 


今日は以上です!!

ありがとうございました。

 

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今、教育について勉強してます。

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