ホンダの創業者は凄腕コピーライター。ホンダの創業者3
ブッサンです。
あなたは設計図と聞くと
何の設計図を思い浮かべますか?
私はロボットの設計図を思い浮かべます。
おそらく、幼少期にみた
ロボットアニメの影響だと思います。
ということで、
前回は4サイクルオーバーヘッドバルブエンジンの
設計図が書かれたところからでしたね。
当時はサイドバルブ方式のエンジンが主流でした。
このエンジンは今では主流の構造ですが、
当時としては革新的なものです。
おそらく、このエンジンを開発し、
市販車に導入したのは、HONDAが最初です。
なぜなら、他社が取り入れ始めたのは
ホンダの10年後です。と藤澤さんが述べてます。
本田さんは熱っぽく藤澤さんにこのエンジンが
できればホンダは大丈夫!!話します。
「これはな、こういうバルブがあってカムでこう動いて、
これがエンジンってもんなんだ。2ストロークみたいに
竹筒(たけづつ)に穴を空けたような代物じゃないんだ!」」
メカの分からない藤澤さんは
「あ、そう、結構ですね。ほほう。」
とのこと。
このエンジンの設計図を書いた人は
本田さんではなくて、
河島喜好(かわしまきよし)さん
という方です。
浜松高等工業学校出身(現在の静岡大学工学部)の出身で
本田さんのアイディアを具現化した人です。
大卒相当の社員は河島さんが最初だそうです。
この河島さんが、後の2代目社長になります。
河島さんのことにちょっとふれると、
1947年に本田技術研究所に入社。
なので、本田さんがバラック小屋で会社を
はじめた翌年に入社になります。
キン肉ハウスに似ています。
藤澤さんよりも古株の創業メンバーですね。
ホンダ入社のキッカケは
本田宗一郎が近所に住んでいて、
父親が宗一郎と交流があったからだそうです。
大卒相当の知識があって、図面が引けるということで
「即採用」だったそうです。
宗一郎がコタツに入ったまま面接して、
じゃあ、明日からウチにくるか!と言われたそうです。
(この逸話は、本当かどうかわかりません。)
色々と当時のことを調べていくと、
河島さんが後のキーマンになっていきます。
本田さん、藤澤さんがどんな様子だったのか?
そばにいた河島さんは様々なコメントを
残しています。
話は戻ります。
このエンジン、画期的なエンジンですが、
スムーズに商品化出来たわけではなかったらしいです。
まずは作る場所の工場が必要になりました。
このエンジンをつくる為の設備も不足してます。
新しい技術のエンジンなので、ギア、
その他のパーツも新たにつくる必要があります。
ということで、たまたま埼玉にある廃工場を
買うことになります。
しかし、お金がありません。
藤澤さんが交渉に交渉を重ねて、
月賦で買ったそうです。
(月ごとに分割でお金を支払うことです。)
11500㎡のドでかい工場です。
銀行が腰を抜かすと思い、
買ったことを藤澤さんは黙っていたそうです。
国内で2輪車がこんなに売り物になると
誰も思ってなかった時代の話です。
やることのスケールがでかすぎます。
そして出来上がったバイクが
「ドリーム号E型」です。
このバイクは国内の競合他社のバイクに
比べて飛び抜けて性能が良かったようです。
箱根の峠越えの逸話でも有名です。
当時の国産バイクで箱根の峠をノンストップで
登ることはできなかったわけですね。
トラックなどの四輪車も無理でした。
だいたいは休み休み登っていたそうです。
じゃないとエンジンが焼き付いてしまいます。
1951年7月の箱根峠のテスト走行
天候は 雨
このドリーム号E型はテスト走行をして
トップ・ギアでノンストップで登ったバイク
と語り継がれてます。
その時のテストライダーが、
先ほどの河島さんだったのですが、
雨の日で空冷が水冷になったから良かった。
当時のバイクは2速だけだったから、トップ・ギアは
当たり前。とぶっちゃけてます。
このバイクは売れた!と藤澤さんも
語っています。
ドリーム号D型が月生産150台。
ドリーム号E型が月生産500台だったそうです。
約三倍売れたということですね。
そして、入社2年目の川島喜八郎さんの
尻を叩いて代理店作りに精をだしたと
述べてます。
1952年には景気も回復し、
第一回目の経営危機を乗り越えたホンダは
ここで、もの凄いDRM戦略を行います。
自転車にエンジンをつけたホンダの初期の
製品を、より軽量でつくってくれ!
と藤澤さんは本田さんに要望を出してました。
そして
「カブF型」が開発されました。
電動自転車のエンジン版なんですけど、
これはこれでカッコイイ。
重量も初期の14kgから7kgと
約半分の軽量化に成功してます。
つくったのはエンジンです。(自転車は別売り)
この商品の開発を機に
全国に約55000ある自転車屋さんに
DM(ダイレクトメール)を送ります。
文面は
「あなた方の先祖は、日露戦争の後、
勇気をもって輸入自転車を売る決心をされた。
それが今日のあなたのご商売です。
ところが今、お客様はエンジンの付いたもの
を求めている。
そのエンジンをホンダがつくりました。
興味がおありならご返事をください。」
なんと3万通くらいの返事が届いたそうです。
(もの凄い反応率ですよね。)
そしてその後にこう手紙を送りました。
「ご興味があって、大変うれしい。
ついては1軒1台ずつ申し込み順にお送りします。
小売価格は二万五千円ですが、
卸価格を一万九千円にします。
代金は郵便振替でも、三菱銀行京橋支店に
振り込んでいただいても結構です。」
1952年8月のモーターバイク祭のデモンストレーション
そして前金を振り込んでくれたのが約5000店舗
この時に約13000店舗のお得意さんが
出来たと藤澤さんが言っています。
おそらく、前金で頂くということも
他社は行ってなかったかもしれません。
もの凄いレターです。
当時の1万円は現在の価値で約80万円と言われてます。
19000円×5000店舗 で9500万円
現在の価値で76億円の現金売上を上げたレターを
作成したことになります。
売上もすごいのですが、
この時に
自転車屋さんをホンダの商品の販売店にする戦略
という当時、他社が全く考えていないことを
実行したのが藤澤さんでした。
この自転車屋さんの販売網が
後の安定した商品の販売に繋がっていきます。
私の師匠が大企業も最初はDRM
(ダイレクトレスポンスマーケティング)
で商品を売っている。
ブランド戦略は企業が大きくなったら、
するものだ。
といってましたが、まさしくそうでした。
ホンダの成長の歴史を見ると分かりやすいです。
今日はここまでです。
ありがとうございました!!
以上、ブッサンでした!
私の師匠の最近の活動
https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#12VD0m