ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

国際レースに初出場!  本田の創業者6

ブッサンです。

 

あなたはバイクレースに
出場したことがありますか?

私はありません!

 

ということで、今回も
ホンダの創業者の話ですね。

バイクといえば、私は原チャリしか
乗ったことがありません。
高校の時は工業高校に通っていたので、
周りにバイクを乗っている友人も
多かったのですが、私は乗りませんでした。

学校で免許をとっても良かったのですが、
親がダメ!絶対!ということで
反対をしていたので、
乗るのを諦めていたんですね。

私の高校の時の話はここまでで、

 

前回、冬のボーナスの団体交渉の場である
労働組合の集会に単身乗り込んだ藤澤さん。

 

自分の経営している会社の従業員が
冬のボーナスの金額は少なすぎる!と
怒っている場に乗り込んだわけですけど、

かなりの心理的葛藤があったと思われます。
約1600人の従業員の方が集まっていたと
言われています。

f:id:copywar:20171207083451j:plain


藤澤さんが
組合委員長にあの5000円はどう思うと
質問されたところからでした。

現在の金額でボーナスは20万円。

 

その質問をされて藤澤さんは
どう答えたか?
藤澤さんの著書から抜粋します。


私は『問題にならない低い金額だ。
しかし、もうすこし出せたとしても、
後で会社がつぶれたときに、
なぜあのとき頑張らなかったのかと
追及されるとすれば、
経営者として誠に申し訳ないことになる。
それよりも、年明けて3月ごろになれば
また車も売れるだろうから、
そのときにまた団体交渉をしたい』と返事をした。

 

そうしたら、みなも私の気持ちを
汲んでくれたのでしょう、万雷の拍手です。
拍手がとまらなかった。

委員長が、『団体交渉はこれまでとします』
と発言すると、また満場の拍手です。

みなの間を通り抜けて歩いて行くと、
両側から『頼むぞ!頼むぞ!』という声が
かかったときには涙がこぼれてしまった。

ほんと、泣きながら、きっとやるぞと心に誓いました」
(『経営に終わりはない』より)

と述べています。

 

f:id:copywar:20171207083531j:plain


当時の組合委員長は
「すごく心情をいう。そういうものがありました。
 他の方たち(工場長、部長)が話をしても従業員は
 納得しないと思いましたね。理解しないと思います。
 それが藤澤さんだから、皆さんは受け止めたんじゃないかと
 私は思っています。」

 

経営判断を隠さない。

従業員と逃げずに直接話す。

すごい方ですね。藤澤さんは・・

 

こうしてホンダの1954年は終わるのですが、
実はこの年の3月にマン島TTレースの出場宣言が
されていたわけです。

 

f:id:copywar:20171207083604j:plain


1954年の2月には、ブラジルのサンパウロ市の
400年祭のオートレースに
試験的に出場していたんですね。

 

f:id:copywar:20171207083638j:plain


ホンダの創業時を描いたテレビドラマでは、
労働組合の交渉の後に、マン島TTレースの出場宣言と
ありますが、あれはよりドラマチックに見せるための
演出なんですね。事実とは異なっているわけです。


実はあの宣言の後に4機種全てが不調。
ホンダ未曾有の大ピンチに陥るわけなんですよね。


話は戻って、その時のサンパウロ市の
レースへの出場の様子が面白いので、
ここで取り上げさせてもらいます。


ある日・・。
全国小型自動車連合会の栗山さんという方が
当時の通産省の車両課にサンパウロ市の
モーターサイクル協会から招待状がきているのを
見つけたそうなんですね。


サンパウロ市の400年祭記念レースに
日本も参加しないか?費用はこちらでもつ。
という内容の招待状だったそうです。

 

ところがこの招待状、車両課の課長の未決箱
に入ったままになっていたそうです。
今で言うと未読メールで見ていなかったと
いうような感じですね。
書類を処理してなかったのでしょう。


締め切り間近に迫っていたのだそうです。

栗山さんが急いで各メーカーに話をして、
5社が参加を表明したのですが
締め切り後だから、1人分の費用なら出すとの
ことだったらしいです。

結局、ホンダとメグロの2社が
足りない分を出し合って出場することになったそうです。

ホンダからは3人バイクレースに向かったそうです。
船便は間に合わないので、当時はプロペラ飛行機
なんですけど飛行機で向かったそうですね。

飛行機代は1人80万円。
現在の金額にすると、は3,40倍の金額になりますから、
2千万から3千万の飛行機代になるわけですよね。
もの凄い金額なんですけど・・。

で、オートバイは2台バラバラにして3人で
手荷物で持っていったらしいです。
それでも、かなり!重たいと思うんですけどね・・。

そして、ホンダさんに挨拶にいくと、
「勝つことは考えるな。何としても完走してくれ。
 それだけは頼むぞ。」と言われた。そうです。
完走だって結構難しそうだった。ということでした。


今では日本の技術はなんちゃら・・。と
思われて当然という認識ですが、
当時はそのレベルだったんですね。
そんな状態からのスタートだったんですね。
そこから世界一を目指していくわけなんですね。

レースは125cc 250ccに出場したのですが、
250ccのレースにはレーサーの方が怪我をして欠場。

125ccはなんとか完走出来たそうです。
結果は25台中13位だったとのことです。

平均時速は115K 海外のバイクはもの凄い性能で
トップは130Kは出ていたそうです。
馬力も倍はでていたとのことですねー。

ところがそこから大変なんですが、
レースに1人がレースに出られなくなったので、
レースに出場するともらえるお金が
1人分もらえなくなったんですね。

結果、日本に帰れないという状況になって
しまったらしいんです。


日系人の方に義援金パーティーを開いてもらって、
ホンダの本社に金をおくれと言ってお金を集めるわけなんですけど、
もう全然足りないらしいんですね。
やむなくマシンを現地で売って滞在費の足しにした。
とのことでした。

アメリカから乗り継いで5日がかりで日本に帰ってきたそうです。
かなり、行き当たりばったりですよね。
当時の日本は外貨の持ち出し制限とかがあって大変だったらしいんですよね。


日本に戻って本社に直行して

「社長、ただいま戻りました!」というと

「お、帰ってきたかご苦労」って目を合わせずに終わり。
ガッカリして浜松に帰ったら、大村がブラジルの国際レースで完走したぞ!
とあっちこっちにいってあるいていたとのこと。

レーサーは大村さんっていうんですけどね。スイマセン。

本田さんは、かなり照れ屋な方だったそうです。

 意外と知られてませんが、行き当たりばったりな

ホンダの創業時の様子でした。

 

本日はここまでですね。
以上、ブッサンでした。
ありがとうございました!!

 

 

 

 

 

 

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#12VD0m