ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

スーパーカブ開発秘話2 ホンダの挑戦者達13

1956年の年末

本田さんと
藤澤さんは欧州に向かう飛行機の
中にいました。


前回は藤沢さんが本田さんに
50ccのバイクの開発に
着手してもらうように
説いているところまで話しました。

実は前々回もこのネタで
終わってるんですよね。
日本の公道はどんな感じ、
当時のバイクというのは・・。

という時代背景を説明するのに
文字を使いすぎてしまいました。

前回のブログです。
http://blog.hatena.ne.jp/copywar/copywar.hatenablog.com/edit?entry=8599973812338604564


カブF型にかわる大衆向けの
製品を開発しないと
今後のホンダの未来はない。

と藤沢さんは思っていました。

カブF型は他のメーカーが
真似をしてホンダよりも
良い改良型の製品をつくっていました。

それと自転車に取り付ける設計では
走らない、故障しやすいなどの
不具合が生じます。

自転車によって取り付ける
位置などが微妙に異なるからです。


藤沢さんは隣のシートに座っている
本田さんにいいました。

「カブ号のように自転車に取り付けるようなものじゃ
もうだめだ。一体型のバイクだ。どうしても50ccだ。
大衆向けの商品を作らない限り、うちの将来はないよ。」


本田さんは
「そんな、50ccのバイクなんてつくれるものか・・。」
といいました。


当時のバイクは125cc、250cc
以上が主流で、50ccのバイクは
日本では、ありませんでした。

 

50ccのバイクをつくると
いうのは本当に大変です。
部品が小型になりますし、

そもそも排気量が小さいので
馬力がでません。


当時の日本の土の道路では
走らない可能性があります。

本田さんがそういうのも
納得です。

ドイツに行くまでは72時間
かかったそうなのですが、
機内で本田さんが寝て起きると
50ccのバイクをつくってくれ!

と藤澤さんがいうという
流れだったようです。

しまいには本田さんも
うるさがったようです。

しかし藤澤さんは粘りに
粘りました。
でも、藤澤さんも
どんなものを作れば良いのか?

明確なイメージは
なかったようです。

本田さんはイメージできないと
うん!とは言わない性格。

だんだんと藤澤さんにも
返事をしなくなったようです。
しかし、さすがは営業畑出身の
藤澤さんです。

本田さんのパターンを
読んでいました。


本田さんの場合、
返事をしなくなったということは
頭の中であれこれと
考え始めたことを
意味しているようです。


そしてドイツに着いた翌日、

様々なモペットを見て、
※モペットというのは
今の日本でいう原付きバイク
つまり50ccのバイクのようなものですね。

オートバイだけの使用のものと
ペダルが付いていて自転車の
ように使えるものもあったようです。

「これはどうだい?」って
藤澤さんに聞きます。


藤「こんなの、だめだ。」

本「これは?」

藤「こんなのつくったって、
  どうしようもない」

本「ないじゃないか」

藤「ないからつくってくれといっているんだ。
  こんなんじゃだめだよ。
  すぐに売れなくなっちまう。」

当時のドイツでも
藤澤さんが売れる!と確信をもてる
バイクが走ってなかったようです。

しかも仮に同じバイクをつくっても
日本の悪路では走らなくなるだろうと
本田さんも予想してました。

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ドイツのクライドラーというメーカー 1956年のバイク

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イタリアのランブレッタというメーカーの1956年のバイク


そんなやり取りをしている間に
本田さんはなんとなく
藤澤さんの欲しがっているものが
イメージできたようです。

そして、帰国してから
約一年さまざまな試作、
設計が行われました。

 

・エンジンは高出力、静粛性と燃費に優れた
 4ストローク。2ストロークはうるさいです。

・独自のクラッチ機構。
 足だけでギアチェンジができる設計。
 これは蕎麦屋の出前で片手が使えない方でも
 使えるようにとの設計でした。

・車体は女性も乗り降りしやすいカタチとサイズ。


・先進性のあるあるデザインで、
かつ親しみやすく飽きが来ない。

(ホンダHPより抜粋)、

日本でも世界でも
生産されてない小型バイク
をつくろうとしていました。

しかもエンジンはカバーの
中に収まる設計でした。

これは藤澤さんの奥さんが
指摘したらしいのですが、
女性からみると露出した
エンジンは美しくないとのことでした。

藤澤さんの奥さんは
エンジンを鶏の臓物のようなもの
といっていたそうです。
今では言えない例えですね。

スーパーカブは国内、
世界ではじめての技術、
デザインが取り入れれてました。

タイヤ、様々な部品も
協力メーカーの方と一緒に
つくったそうです。

原寸大の粘土モデルから
作成を開始したようです。
フロントフォークというバイクの
前輪を抑える棒の部分は

ディズニーの映画バンビを
見ていて疾走しているバンビが
急停止するところから
模しているとのことでした。

配色の青は当時の日本では親しみの
あるポピュラーカラーだったそうです。
シートの赤の色は本田宗一郎さんの
赤いスポーツカーや赤いシャツ、

映画「旅情」のベネチアンガラスから
イメージしたデザインを手がけた
木村さんは仰ってます。

そしてロゴは以前のカブF型から
そのまま使ったらしいです。

1957年の暮れにはこれだと思える
試作品の模型が完成したそうです。


本日は以上です。
ブッサンでした。
ありがとうございました!

 

 

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https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#12VD0m

 

 

引用元
ホンダHP スーパーカブAnniversary
藤澤武夫著 経営に終わりはない