ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

大成功から大ピンチ!HONDAの創業者4

あなたは成功曲線を体験したことがありますか?
成功曲線とは今までコツコツと努力をしてきた
結果が一気にハネる現象のことです。

 

このような曲線を成功曲線といいます。

 

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前回のDM戦略から、まさにHONDAはこのような
成長曲線の売上をあげます。


1500台のカブF型を初出荷し、
当時の売上で3750万円をあげます。

当時、大卒の初任給が5000円くらいだそうです。
現在は20万円くらいの給料をもらえるのでは
ないでしょうか?

そう考えると
約40倍が現在の価値と考えられます。
初出荷15億円。


13000店舗が開拓できたといってますから、
100億円前後の売上をあげたと考えられます。
当時は今のように自転車屋さんは
バイクを売っていませんでした。
自転車のみを売っていました。


自転車屋さんが藤澤さんのDRM戦略で
今の原付バイクを売るようになっていくのです。
商品を発注してくれてリピーターになりうる
優良な顧客を開拓したことになります。


また、当時となかったローンシステムも
手形を使って自社で開発しました。


このカブF型の成功を機に
他の2輪車メーカーも同じようなことを真似をします。
スズキもそのような販売形態を後ほどとっていきます。


ホンダが新しい市場を開拓したことで、

国内の2輪車の市場がどんどん拡大していったのです。

 

そして15坪の東京営業所を八重洲(本社)に移しました。
土地が98坪、建物が170坪だそうです。
しかし、紡績工場のバラックを立て直して
使ったとのことで、建物はボロボロだったようです。

今でこそ八重洲は一等地ですが、
当時は違かったようですね。


製作所は冷暖房付きだが、ここはバラック。
だが、みな火の玉のような誇りをもった。
と藤澤さんは当時のことを語ってます。


箱根越えのドリーム号も
145ccから
175cc
200ccと
パワーをアップした車種もつくり、
生産は急上昇する方向にあったそうです。


免許の制度に合わせて90ccもつくれば
売れるということで、
ベンリイ号という新車種も開発します。

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ベンリイ号

 

また、国内初のセルスタートの

スクーターのジュノオ号も
開発しました。

 

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ジュノオ号

 

昭和27年くらいには
月に2、3億の金が手元に残った。
といっています。


なので、現在では80億円から
120億円のお金が残っていたようです。
時代もあったと思うのですが、
規模がもの凄いですね。


朝鮮戦争の特需の影響で
世の中が景気がよかったことも
影響しているようです。


資本金は600万円
現在では2億4000万円。

しかし、本田さんは満足してなかったようです。

本田さんは自社の月報でこう述べています。
1952年の文章だそうです。

9月の生産はドリーム号は1000台を超え、
カブ号は5000台を超えました。
これは日本において一流になったということで、
世界を見ると、現在私達が到達しているレベルは
誠に恥ずかしいと述べてます。


ドリーム号でやり遂げた箱根を一気の登る
性能は外国車では当たり前の性能だったのです。

バイクを世界的水準の性能にもっていくには
バイクの部品を作るための最新の工作機械が
必要で、ここで思い切った設備投資をします。


その金額4億5000万円。
現在の金額で180億円・・。
本当にすごい金額です。
今の私には想像もできません。

 

海外の最新の工作機械を購入します。
この機械によって世界のレベルの製品を
つくろう!ということで、
大胆な行動に出ました。

国内の大手のメーカーでも
備えていない最新設備です。
当時も先の見えない状況です。


ですが、本田さん、藤澤さんとしては
勝算があっての投資です。


しかし、ここでHONDAが創立以来の
大ピンチを迎えます。


特需景気は終わり、
カブF型に刺激された他のメーカーは
カブF型を改良した製品を世の中に
出してきます。

結果、カブF型が売れなくなりました。

ベンリイ号は音がうるさいということで、
売れず、ジュノオ号も車両が重たい!
ということで不評。

ドリーム号は225ccにパワーアップしたのが
失敗。エンジンの調子が悪いということで
クレームが出はじめました。

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ドリーム号E型 225cc


バイクの売上が、
パッタリと止まってしまったのです。
このままでは手形が落ちません。
手形が落ちないということは
社会からの信用を失い、
会社が倒産するということです。

従業員は約2000人くらいになっていました。

藤澤さんは売れていた
ドリーム号の200ccを急遽生産してもらい、
現金をつくります。


そして、部品などの納入業者に
一度に集まってもらって、
今までの代金は払うが今後の部品の代金は
一時的に支払いを分割でさせてほしい!と
交渉します。

一か八かの交渉です。
承諾してもらえなければ、バイクの
生産はストップします。

話しながら、生唾がでた・・。
と藤澤さんはおっしゃってます。

生産ストップすれば、売上をあげることができません。
結果、倒産という文字が頭をかすめたかもしれません。


数社離れる業者はあったものの、
多くの業者は承諾してくれたそうです。

なんとか承諾してもらったときには、
ホッとして力が抜けた。と語ってます。

しかし、HONDAの大ピンチはまだまだ続くのでした。

 

今日はココまでです。
ありがとうございました!

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コピーライターの師匠

仙人さん最後のビジネスモデル