ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

スーパーカブ開発秘話3 ホンダの挑戦者達14

ブッサンです。

前回の話は
1957年(昭和32年)の年末、
スーパーカブの
模型ができたところまでを
お伝えしました。

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先週の記事

http://copywar.hatenablog.com/entry/2018/01/25/085057


技術開発というものは
失敗がほとんどです。

有名なエジソンの電球の
試作の話がありますが、
新しい技術はお手本がない
世界です。


物理的に可能なのか?
そもそも本当に具現化
することが可能な技術なのか?
そんな暗中模索の中、


できると信じて
突っ走る技術者がいない限り、

そして活動を経済的にも
精神的にも支援してくれる
方々がいない限り、

新しい革新的な技術は
世の中に生まれません。


スーパーカブはそんな
新しい技術のかたまりの
ようなバイクでした。

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50ccの4ストロークエンジン。
当時は2ストロークが主流

50ccで4.5馬力の出力を
可能にしました。
最初のカブF型は1.3馬力

クラッチを踏まなくても
足だけでギアチェンジが
できる仕組み。

片手での運転を可能にして
そばの出前の配達を
バイクですることが
できるようになりました。

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エンジンを見せない
スタイリッシュな
デザインと外装の
プラスチックの加工技術

全てをコンパクトにして
部品は新しいものを国内で
つくりました。

新しい技術が生まれると
いうことはそれに伴う
部品の生産の需要が
生まれます。

ホンダスーパーカブに
よって様々な部品が
国内で生産されるように
なっていきました。

追随する他のメーカーも
ヒット作をオマージュした
バイクを開発します。

 

それにともなって
また、同様の部品の
需要が高まるという
循環が生まれます。

ホンダの新しい
技術への挑戦が
日本の高度成長を
下支えしたのは
間違いのない事実です。


この話を聞くと
私が飛び込みのセールスを
行っていた時の町工場、

オイルまみれで一生懸命
働く方々、そして自分が
工員として働いていた時の
工場を思い出すんですね。

なかなかイメージしにくい
ですが、自分達が作った
部品が組み合わさって
製品として世の中にでると
いうのは気分がいいものです。

私も生産に携わっていた
車の車種を街で見ると
不思議な感情になります。

あの車の部品はもしかしたら
私が関わったものかもしれない。
とか思うのです。

ちょっと感慨深い体験なんですが、

話を戻して、
そんな大量需要を生むバイクに
なる模型を見て藤澤さんは


「うん、これなら売れる。ぜったい売れる。」
といったそうです。


本田さんは
「どれくらい売れる?」と聞きました。


藤澤さんは
「うん。・・まあ、月三万台だよ。」


と言ったそうです。
その場に居合わせた研究員の方々は
もの凄く驚いたそうです。


当時の日本国内の2輪車の販売台数は
全部で月2万台くらい。
(ホンダHPには4万台とあります。
 これは国産、海外製品両方の
 販売台数かもしれません。)

ホンダのドリーム号、
ベンリー号を合わせて
販売台数は6,7千台だったそうです。


その3万台の言葉は本田宗一郎さんも
年間販売台数だと思っていたのですが、
藤澤さんは月に3万台売れるといったわけです。


今年、60周年を経て、生産台数1億台を
突破したスーパーカブ。
単純に一億台を60年と12ヶ月で割ると


月の平均生産台数はなんと約13万台。
販売台数もそれに近い数字になると思います。
藤澤さんの予言を遥かに超える形で
スーパーカブは全世界で売れるバイクに
なっていくのでした。


販売当初は5ヶ月で2万4000台
翌年は16万7千台が売れたそうです。
しかし、そのスーパーカブも
販売当初は広告宣伝は

新聞広告のみで大きな宣伝は
行わなかったそうです。

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その理由としては
表向きの販売戦略と
ホンダの製品開発の戦略

それと苦しい状況もあったようです。

販売して3ヶ月、クラッチのキレが
悪くなって滑るという苦情が
発生したとのことです。

滑るとはギアが入らない状態ですね。

月産3万台目標、鈴鹿工場を新設
しようとしていた矢先のことでした。

売れ行きが鈍ってきたわけです。

もし、鈴鹿工場が稼働しはじめて
大量生産が始まったら大変な
事になります。

不良在庫をどんどん抱えてしまうのです。
当時からメーカー保証という制度は
ありましたらから、市場にでたバイクは
メーカーが修理を保証しなければなりません。

それ以上に欠陥品と烙印を押されれば、
売れ行きが回復するまで時間がかかります。
もしかしたら回復しないかもしれません。

藤澤さんは工場、研究所に足を運んで
右往左往しながら命が縮む
思いだったそうです。
当時はそんなことは部下の方にも
お客さんにも見せれません。

そんな1958年(昭和33年)の年末に
入社5年目の若い技術者の方が
そのクラッチを直してしまった。

そして、既に流通している
お客様に売ったカブは
正月休み返上で働き、1月一杯で
直してしまったようです。

技術というものは市場に出して
みないと実際には分からないものです。
もちろん、市場に出す前は何度も
試験を重ねているのです。

藤澤さんが新聞広告のみで
当初販売していたのは、
大きな宣伝をする前に
・市場での試験と改良
・生産現場の効率化
・工員の方の人的技術の向上を
行っていたのだろうな・・。
と思うのです。

開発に3年、改良に3年を
更に費やしてから、
やっと大きな広告戦略を
行いました。

急がば回れですね。

そしてじっくりと改良し、
当時の日本の悪路で
鍛えた性能のスーパーカブは
国内市場を席巻し


ついに第二次世界大戦で
日本を倒した国。
アメリカの二輪車市場へと
戦いの場を移すのでありました。

その話については次回ですね。

ホンダHPである
http://www.honda.co.jp/supercub-anniv/story/vol2-p2.html
より拝借した画像を載せておきます。
当時のコピーの勉強にもなりますね。

 

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追伸、
練習もかねて、こそこそ書いてきた文章ですが、
最近、ホンダの章だけアクセスが上がってきました。
不慣れとリサーチ不足で、
細かい事実の間違いもあるかもしれません。
温かいご指導よろしくお願い致します。


このブログは 藤澤武夫さんの著書「経営に終わりはない」
本田技研工業株式会社の文章から
一部を引用させていただいております。

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https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#12VD0m