ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

ホンダ設立以来、最大の危機・・。ホンダの創業者5

 あなたは大ピンチを

体験したことがありますか?

私は何度もあります。
押し潰されたこと、
乗り越えられたこと、ぶん投げたこと、
逃げたこと。助けてもらったこと。
色々ありました。

が、今回の話を聞くと私のピンチは

大ピンチではなかった事に気が付きます。

 

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成功者の話を聞いていると、
必ずといっていいほど、
このような窮地が訪れます。

ブッサンは、まだ成功者ではありません。

 

この窮地が登竜門になっている
わけですね。


登竜門とは
鯉が龍に変わる滝というのが語源になっています。
中国では鯉が龍になると言われていたんですね。
その滝を登りきれれば、龍になれますが、
上りきれなければ、鯉のまんまです。


しかし、ホンダの創業時以来、最大の危機・・。
なんですが、本田さん、藤澤さんは
どのようにその危機をのりこえていくのでしょうか?


藤澤さんがドリーム号E型200ccを生産してもらったと
書きましたが、生産してもらうのも実は大変だったようです。

当時は、労働組合ができたばかりで
工場がなかなか言うことを聞いてくれなかったようですね。
そんな中、急遽、前の商品の生産を依頼しました。

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工場のラインの調整というのは
本当に大変なんですね。
私も工場勤務を体験してますが、
一日では終わらない作業だったりするわけです。

急遽、前の商品を生産してくれと
と言われてすぐに生産できるものでもありません。
従業員の方から不満がでるわけなんですが、
それを承知で依頼しなけれなりません。
1952年(昭和29年)4月のことでした。

 

また、前回も書いたとおり、
部品の納入業者との交渉ですね。
部品はほしいが、代金は分割で支払う。
というお願いです。

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業者が何社会ったか分かりませんが、
少なく見積もって5,60あったのではないかと
思っています。ちょっと盛りすぎですかね・・。
その半分だったとしても、
いい顔をするはずがありませんから、
20,30人の嫌な顔をしている担当者と
交渉をするというのは、精神的にタフじゃないと
できないですよねえ。すごい方です。


これが1952年5月
かなりの感情の摩擦をご経験されたと思います。
知ったふうなことをいって話を進めさせて頂きます。


藤澤さんは、ついに主力三菱銀行との融資の依頼の
交渉を行いました。今まで融資の依頼は初だったようです。
この融資を受けられなければ、本田技研工業は倒産
してしまいます。

従業員も露頭に迷わすということになります。


この年のことを藤澤さんはこう語ってます。
手形が落ちない夢をみたり、
脂汗をかいて夜中に何度も着物を変えたと
いっているわけですね。

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これが会社経営を行うも者であれば、
誰しも経験すること・・。らしいです。


藤澤さんが夜にうなされる様子をみて
奥様は私はとてもこんな苦しみ勝っていくとか

耐えられない・・。と思ったそうです。

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その頃、本田さんは不眠不休でドリーム号Eの型の
エンジンの不調の問題の原因解明に取り組んでいました。

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ドリーム号E型のエンジンの不調というのは
走行してから、停車するとプラグが被って
エンジンが止まってしまうというトラブルです。

 

エンジンはガソリンを燃やして、
その爆発力で推進力を得ているのですが、
ガソリンが燃えるには空気(酸素)が
丁度いい状態ではないと、燃えません。

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走っている時は、エンジンは調子がいいのに、
なぜ、停車すると調子が悪くなるのか?
本田さんは頭を痛めていました。

さて藤澤さんの話に戻りますが、
メインバンクの三菱銀行へも状況と
今後の展望を説明し融資の依頼をします。

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ホンダは複数の銀行とは付き合わず、
三菱銀行とだけ付き合いをしていました。
これが功を奏したのか、
銀行は融資をしてくれました。


一時的な危機は脱出しましたが、
今後の不安要素は残っています。
藤澤さんは、さらに給与制度の見直しをしました。


給料のバラ付きを専門家の方に聞いて
改めたらしいです。
高給取りと末端の給料の差を末端の給料を
あげて是正しました。

今のようにリストラ、給料減額ということ
ではなかったようです。

そんな様々なテコ入れを行っていました。


そして、本田さんの話に戻ります。
本田さんは遂に、問題は
エンジンではなく、燃料を噴出している
キャブレーターにあるということを突き止めます。

 

キャブレーターの部品は
部品会社が製造していました。
そして、試行錯誤の末、キャブレーターの
改善案を提供し、部品メーカーに
再度キャブレーターを製造してもらいました。

それによって、ドリーム号の
エンジン不調は解決しました。

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本田さんのつくったエンジンの性能に
キャブレーターの性能がついて行けなかったのです。

この件で、藤澤さんが本田さんから電話を
もらった時の様子が著書で記されてます。


「片付いたよ。俺、昨日の晩、床の中(布団の中)で
 キャブレーターを替えたら、エンジンが止まらなくなっちゃった。
 俺の思っていたとおりだ。」

とのことです。
興味深いですね。想像でエンジンが
止まらなくなるとはどういう状況なのでしょうか・・。
ということで、エンジンのトラブルはなくなりました。


藤澤さんの試練は続きます。
この昭和29年の暮れに
越年手当(冬のボーナス)の金額の件で、
労働組合と初の団体交渉をしなければならなくなったようです。

 

会社側からの提示金額は5000円
これは世間の相場としては
4倍にしても少ない金額だったようです。

しかし、部品業者の方々にも支払いができない
状況の中、従業員に大きな金額のボーナスを
出すわけには行きません。

経営的にも危険です。

組合は猛反発をして
1600人の中で1人話を

しなればならなくなったようです。
怒号やヤジが飛び交う中、

藤澤さんが単身乗り込んでいくんですね。

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あの5000円の金額をどう思うか?
と組合委員長に質問をされました。

藤澤さんはどう答えたのでしょうか?
本日はここまでです。


ブッサンでした。ありがとうございました。