ぶっさんのコピーライター奮闘記

コピーライターで起業。現実は甘くはなかった・・。

ヤマハに勝てない・・。ホンダの創業者9

ブッサンです。
あなたはレースをしたいと思いますか?

私は安全ならやりたいです!

 

ということで毎週木曜日は
人に関するブログ記事を書いています。

ホンダの創業者の方々を
書いているのですが、ホンダは本当に
ストーリー満載な企業ですね。

最初は一回にまとめるつもりでしたが、
諸先輩方が血と汗を流しながら
ご尽力された歴史です。

私のような駆け出しライターでは
とても一回にまとめることができませんでした。

 

調べていく内にホンダが更に好きになり、
私のブロブも木曜日は
連載になってしまいました。

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本田さんは左から4番目


先週までの話は
マン島レースを目標に、まずは腕試しに
国内のバイクメーカーだけが
競う浅間火山レースに
ホンダが出場するところからでした。

1955年のことです。

浅間火山レースは11月開催されましたが、

 

7月には静岡の富士宮市で
第3回富士登山レースと
いうバイクレースが開催されてました。

そこで、ホンダは250ccクラスで
一位.二位.五位を独占。
125ccクラスではヤマハに負ける結果に
終わりました。

 

ヤマハはもともとはピアノを
つくっていた楽器メーカーです。
しかも同じ静岡の会社なんですね。。

その後、国内のレースでは
ヤマハとの激しいデットヒートが
繰り広げられるのです。


この頃の国内のレースというのは、
レース用のマシンではなく、
市販車(実際に販売しているバイク)で
競うものでした。

なので、レースに勝てば市販車の
性能が証明されたことになり、
広告に勝る大きな宣伝効果になるのです。


しかも、レースに出場するライダーの方々は、
各メーカーの社員の人だったようです。

ホンダも社員の方がレーサーとして
参加されてました。

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このレースに出場する
秋山邦彦さんはレースの練習に
熱心でギリギリのコーナリングを
練習して何度も転倒していたそうです。

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レース当日も肋骨にヒビが
入っていたまま出場したとか・・。
そしていよいよ11月に

 

第一回浅間火山レースは
始まりました。

 

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スタートの様子

 

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土ぼこりがスゴイ。

 

クラスは125cc
    250cc
    350cc
    500cc
の4クラスに出場。


バイクの排気量別にクラスが
分かれていました。
大きな排気量なほど、多くのガソリンを
一気に燃やすことができて、最高速度や
加速力を高めることができます。

 

当時のレースの道は舗装されてなく、
土のコースだったようです。
砂や小さな石も多いです。

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なので、マシンのタイヤも
現在のアスファルトの
レース用マシンとは違いますよね。


そしてこの浅間火山レースの
気になる結果なんですが、
350cc  1位 
500cc  1位
を獲得するが、

肝心の
250ccでは2位
125ccでは1位から4位を
ヤマハのYA-1というバイク
に独占されてしまいます。

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ヤマハYA-1

 

250ccは丸正自動車製造のライラック
というバイクが1位になりました。

 

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丸正自動車 ライラック

 

排気量の低いバイクの方が
売れるので、これは残念な結果です。


本田宗一郎さんは顔を真っ赤にして
泣いていたといいます。

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あんなに悔しそうな本田さんをみたことが
ないと当時の部下の方は言っています。

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プロジェクトXで証言されてました。


それもそのはずで、
ヤマハのバイクYA-1は、
楽器メーカーだったヤマハが
初めてつくったバイクです。

 

丸正自動車製造という会社は
本田さんのアート商会時代の
部下の方が立ち上げた会社です。


人目もはばからず泣く本田さんの気持ちは
いかほどのものだったのでしょうか・・・。
私もなぜかちょっと前の仕事の失敗の
悔しい気持ちを思い出し、涙がでました・・。

アホです。
私の悔しさとは比較にならないくらいの
悔しさだったと思います。

 

ちなみに
125ccのクラス
250ccのクラスはヤマハに4年間
負け続けたそうです。


1957年の第2回目の
浅間火山レース。
部下の方が当時のことを回想する
文章が残ってます。

「第2回の時だった。今でも目に浮かびます。
 夕日が沈みかけて、ススキの穂が真っ白に光る土手の上に、
 おやじさんが座っていた。トップのヤマハが、
 ビィーンとやってきて目の前でゴールした。
 僕は久米さんと一緒に、横で見ていたんだけど、
 全然怒らないんですよ。
 『負けちまったものはしょうがねえ』って、
 ポツンと言っただけ。淋しそうで気の毒だった」

(ホンダHP 語り継ぎたいことより。)


1959年の第3回の浅間火山レースで優勝!と思ったら、
そのはヤマハはレースに出場してなかったそうです。

 

 

なんと、ヤマハは1958年には
カタリナ国際レースという
アメリカのレースでヤマハ6位は入賞していました。

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既に世界で戦っているヤマハ・・・。


当時は、ホンダのはるか遠くを
ヤマハは走っている。

そんな錯覚を覚えたかもしれません・・。 


本日は以上です。
ブッサンでした。

本日もありがとうございました。

 

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